2015.11.30.
実際ここを訪れた2015/11/28-29という2日間は、俺らの人生に重要な意味を持地ました。
『新しい価値観、生き方を模索して』っていう意味合いが、同じ少人数での共同体って意味の“コミュニティ”にはなくて、“コミューン”には含まれてる。
放浪というライフスタイルを50年近く続け、今は自給自足の生活を営む日本人コミューンに軸足を置いて生きる67歳のKemさんという人物に出会えた日
自分でも全然納得がいかないくらい陳腐!
実際に受けた波動は、うまく言語で表現できない。。
「言語って、かなり限られた自己表現方法だよね」って、大学時代にサークルの同志と練習場に寝そべってしゃべったのを思い出す。
人それぞれが感じている微妙に誤差のある感情を、誰かが作ったコミュニケーションツールに押し込むわけだから、その誤差がなかなか伝わらなくなる。日本語には擬音語とか曖昧さがあるから、比較的伝わりやすい言語なんだなと旅に出て感じるけども。そして、そんな誤差というか感じている絶妙な世界観を表現するためにアート(絵とか音楽とか)がある。
そのアートを、何にもないところから生み出している3人のアーティストに、このコミューンで会えた。
こんなに情報に溢れている社会なんだけど、ここに関する確定的な情報はネットに全然ない。
そして実際にたどり着いた俺らも、このコミューンにとっても訪れる人にとっても、きっとその方が良いんだと感じた。
旅に出て、旅人に出会い、情報交換する中でここの情報が得られたら行くタイミング。
メディアで情報を探して何となく行くっていう経路は、つまらないし感じられるものが減る。何より、よくある観光地のように自分側だけが何かを得ようと興味本意で訪れて良いところではない。アーティストさん達が、世のためのアートを生み出すために大切にしている営みに土足で踏み込むわけだから。
じゃあここで何が伝えたいのか?
きっと、”生き方の選択肢は無限大だったんだ”ということ。
またしても陳腐。。
人っていう動物は何かしらの流れに乗って生きていて、その流れを一番大事にしているのがアーティストだと肌で感じられた。その境地にまだ達したことがないから全然うまく言えないけれども、そこを大事にしたいからムーンビレッジが出来たんだと思う。その近代離れした暮らし方ばかりにフォーカスされてるけど、その暮らし方はあくまで彼らにとっては手段であり掛け替えのない日常。ちまさんの言葉を借りれば「感覚で生きている私たちがフラットでいられる」ための暮らし方。けれどもその一番大事なところが維持できなくなった。
Kemさんの半生は、20歳の頃に武闘家として生きないかと誘われてタイにムエタイを見に行く船で受けたインスピレーションに始まり、そこからもうずっと放浪。
そんな半生での色んな話を伺った中で『初めて自分の生み出したものに値段がついて取引された時の違和感』っていう話がとても印象的だった。
何もないところから、自分と絵とたぶん神様とじっくり会話しながら生み出した物が、貨幣を介して簡単にやり取りされていく。物には値札が付いていて、そこに書いてある額だけの貨幣を出せば所有できるという当たり前のこと。消費、っていうコミュニケーションが一方的になり過ぎてるんだろうなぁ。
‘もう消費すら快楽じゃない彼女へ’を田口ランディが書いたのが2002年。何気なく読んだたけど、たぶんこうゆうことも言いたかったのかな。
Kemさんの自宅兼アトリエの中で4人焚き火を見つめながら、Kemさんの淹れてくれる珈琲や紅茶、作ってくれていたカレーを食べながら過ごした夜。そこだけ現実世界から隔離された異世界のよう。
ムーンがこんな空間のままであれたら、今もたくさんのアーティストさんが残っていたんだろうに。
ホタルのお祝い、流れ星のお祝い、満天の星、満月の明るさ。
22時になると月が出てきて、月の明るさで天の川が見えなくなる。そんな自然の営み。