2016.3.22. By yu
死者を弔う方法って世界でいろいろあるんだよね?
その方法が違うのって『死』の捉え方が違うからなんだろうな。
俺の人生ではまだ火葬しか見たことがない。その同じ火葬でも、日本とインドではだいぶ違う。
何が違うのかなって、次から次に死者が運ばれて来ては焼かれていく光景を、ただただ眺め続けててぼんやり考える。
焼き方だったり設備だったりはもちろん違うんだけど、なんというかその当たり前にみんなが見える場所で焼いてあげてるのってすごいなって、『死』が『生』とそんなにかけ離れたところにあるもんじゃないんだろうなって。
俺の中では『死』はまだ日常の延長にはなくって、どこかしら一線を画された、突然やってくるものっていう感覚。
死んだ後には燃やしてもらって、灰をガンガーに流してもらってガンガーに還る。それがインド人の幸せなんだそう。
全員かどうかはもちろんわからないけど。
死者を燃やした灰が飛んできて、その煙も吸い込んで、その方々が自分の中に入ってくる。
火が燃えたぎる脇で、犬や牛が死者の匂いをうろうろ嗅ぎ回る。
燃やしている火の熱でガンガーが揺らいで見えて、まるでそれが三途の川みたく見えてくる。
街からの物理的な距離感も手伝ってなのか、『死』っていうコトが日常の自然な延長にあるんだっていうことが、アタマでなく全身に沁み渡って理解できてきた感覚。
死者を、弔う。祈る。
誕生を、祝う。願う。
『生』も『死』も人の営み、自然の自然なサイクル。
その大きなサイクルの中で今は『生』きられている俺。
『死』んだら全て終わり、なんてことはないんだろうな、きっと。